【ふじもん】 fuji-monー京都・祇園
袋帯 京都・齊藤富蔵作
花の命を身にまとう喜びを知った、友禅作家との思い出
藤は見る楽しみだけではなく、身にまとう喜びを教えてくれた花である。
生まれて初めて、自分で誂えた藤文様の袋帯。それまで母親が見立てた着物をそのまま着ることが多かったが、30代半ば、ご
縁があって出会った京都の友禅作家、齊藤富蔵さんの美意識に魅了され、誂え
た一枚だった。齊藤さんは古典的な四季の草花を描く御所解き文様(ごしょど
き・もんよう)を得意とする友禅作家で、祇園の芸妓さんの着物も数多く誂え
ていらっしゃった。京都御所の庭の風景を写し取ったような繊細な菊や桜、萩、
松などが描かれ、上品な美しさにうっとりする。そして、私のためにつくって
くださったのがこの写真の一枚。
鶸色(ひわいろ。明るい萌黄色)の地に、藤の花房が大胆に描かれた袋帯。こ
れは香色(こういろ。淡いベージュ)の綸子(りんず)地に、桐の文様を大胆
にあしらった訪問着に合わせて作っていただいた。
初めて、着物と帯を誂えようと京都の呉服店「さいとう富蔵」を訪れたとき、
齊藤さんから最初に聞かれたのは「何の花を入れたいですか」ということだっ
た。「いちばん好きな花を入れましょう。その花を身にまとうと女性はとても
幸せな気持ちになれますし、美しく見えますから」と。"いちばん好きな花"と
いうのはあまり考えたことはなかったと、様々な草花を思い描きながら、ふと
私の口から出てきたのは、「藤の花を」。子どもの頃から好きだと伝えると、
「では、藤は必ず入れましょう」と文様を考えくださり、最終的に決まったの
が着物にではなく、袋帯にメインとして大きく描くという案だった。
私が齊藤さんに何より心惹かれたのは、一枚の着物によって、「その女性にし
かない魅力をつくり出す」ことを考えてくださることだった。齊藤さんの言葉
を借りるならば、「その方の美しさがふわっと浮き立つように」、着物の文様、
その大きさ、配置、色、素材などを決め、体型や年齢も加味して、身にまとっ
たときの立ち姿を見据えてつくってくださるのだ。だから着物づくりは、全く
何も描かれていない白生地に、ご自身で墨で下絵を描くことから始められる。
それから地色を染める、刺繍を施すなど、約22の工程を経て、一枚の着物へと
完成させていく、そのやり方を私が出会った当時、すでに祇園で約60年間、貫
いていらした。普通、着物を誂えるときはいくつもの反物の中から気に入った
図柄のものを選び、それを仕立てるが、齊藤さんの場合は真っ白い生地の状態
から相談する。つまり完全なオーダーメイドで、なんとも贅沢な京のお誂えな
のである。
齊藤さんが私のためだけに誂えてくださった一枚と初めて出会ったときの感動
は忘れられない。たとう紙を開けたとき、藤の花のひとひら、ひとひらに、美
しい色で刺繍が施されていた。指先で触ってみると、ふわりと絹糸の感触が指
の腹に伝わってきた。この刺繍、この色合いは私のためだけのひと刺しなのだ
と思うと幸せいっぱいになったのを覚えている。手前の藤の色も相談を受けて
決めた一色である。「朱色を藤の花びらに使っていいですか?」と。藤文様は
その花の色のとおり、紫色の濃淡で刺繍を施すことが多いが、私には紫色だけ
では地味になるので、「明るい雰囲気になるよう、朱色を使いたいのですが」
とわざわざ確認のお電話をくださった。「もちろんいいですよ、齊藤さんが美
しいと考えられる藤の花の色にしてください」と答えた。こんなやりとりを経
て完成した袋帯。しかも一人で、京都の友禅作家さんと相談しながら決めた、
世界でたった一枚の帯なのだ。今でも、かけがえのない宝物である。
齊藤さんとの出会い以来、私は反物を見て着物を選ぶ、ということをしなくな
った。「こんな着物がほしい」と漠然と思うと、齊藤さんのところに相談に行
った。私は着物への美意識はこの方によって磨かれたと思っている。帯締め一
本、色選びに妥協はない。私にはほとんど同じ色にしか見えない紫色の帯締め
を吟味して、「こちらのほうが似合いますな」と選んでくださったこともあっ
た。白い帯上げ一枚を手にして、白という色に様々な白があることも教えてく
ださった。
藤文様の帯を誂えていただいたのは30代半ば。そのとき、齊藤さんはこうおっ
しゃった。
「今、あなたはまだ若いでしょう。着物が本当に似合うようになるのは40歳を
過ぎてからですよ。女の魅力はまだまだこれからでっせ」とおっしゃった言葉
が今でも耳に残る。
書いた日:2015年4月21日 初出:niftyメルマガ「おとなの学び場 杉原梨江子の聖樹巡礼」第21回
ウィーン国立歌劇場(オペラ座)にて。小澤征爾さんが音楽監督となられた時の公演。ワーグナー作曲「さまよえるオランダ人」